『ムジュラの仮面』は、人生の縮図である ーLoMー
ムジュラの仮面の象徴ともいえる「月」
恐ろしい顔、印象的な月の中、お面屋と同じ顔をした子供たち。
最終決戦を目前に、小泉ワールドがこれでもかと展開していく。
今回は、月について考える『月編』
世界を滅ぼすその実体について、考えていこう。
『タルミナ編』『人物編』はこちら
月の顔
月に"顔"を入れることになったのは開発途中のことで、初期の頃の絵にはまだ顔はなく、タルミナでも仮の月が浮かんでいたそうだ。
小泉氏と今村氏(※1)はインタビューで月に顔についてこのように語っている。
※1 ゲームシステムディレクター 小泉歓晃氏、アートディレクター 今村孝矢氏
"月に何かを加えるとしたら顔しかない。ムジュラの仮面というのは、すごく分かりやすいと思った"
"「ムジュラの仮面みたいな顔の月にしてくれ」と言われたんですけど、(社内スタッフの似顔絵である)あの顔にしてやった"(引用:64DREAM 2000年8月号より)
と、本来は月の顔はムジュラの仮面のようなものをイメージしていたようだ。
そこから考えるに、"月"とは"ムジュラの仮面"だといえるのではないだろうか。
ムジュラの仮面の意思がタルミナで実体化したものがあの恐ろしい月であると、個人的には解釈している。
そのように意識してみると、オープニングのタイトルシーンの月の右目とムジュラの仮面の左目が重なっているように見えなくもない。
タルミナと月の関係性
月がムジュラの仮面だとすると、タルミナと月の関係性がぼんやりと見えてくる。
スタルキッドのタルミナでの悪行は、彼の意思によるものではなかった。
トモダチに裏切られた寂しさからイタズラに走り、その弱さゆえにムジュラの仮面に操られ、次第に仮面の力で暴走していった。
スタルキッドの心がムジュラの仮面によってどんどん破壊されていく様子が、この世界では"タルミナを滅ぼそうとする月"という形で表れているのだろうか。
タルミナと月、それはスタルキッドとムジュラの仮面の関係性を描いているのかもしれない。
月の中
四界の巨人は、トモダチ(スタルキッド)のことを見捨ててはいなかった。
その叫びは友の心に響いた。
巨人たちが月の落下を阻止するが、意思を持ったムジュラの仮面によって再び動き出す。
仮面は自ら月の中へと入り、リンクたちもすぐさま突入する。
死んだか。
そう錯覚してしまうほど、月の中は穏やかで美しい空間が広がっている。
どこまでも続く青空と草原は、世界の終末からの救済、まさに天国のようだ。
だが、その中心で異様な雰囲気を放つ何か。
得体の知れない恐怖が込み上げる。
時折り感じる地響き。
そうだ。止めなければ。
美しい空間への信頼はあっという間に崩れ去る。
この印象的な「月の中」は、どのようにして生まれたのか。
空間からシナリオまで手掛けた小泉氏の制作秘話を少し引用させていただく。
"仮に作ってあった世界は月基地みたいな感じであまりよくなかったんですね。
月の中がガミラス星(宇宙戦艦ヤマト)とかだと、かえって普通な感じなんですよ。
おとぎ話のような世界に持ってきていちばん違和感があるのは、写実的な世界だと思うんですね。"(参考:64DREAM 2000年8月号)
なるほど、違和感を演出するためにあえてあのような写実的で美しい空間となったわけだ。
いつの間にか奇妙が当たり前で写実的なものに違和感を抱き、不調和な世界観に魅了されていく。
そうして作り上げられた異質な世界は、私を含め、多くの人を虜にしたことだろう。
子どもたち
無邪気に走り回る亡骸を被った子どもたちと、大樹の下で膝を抱えるムジュラの仮面を被った子ども。
彼らは皆お面屋と同じ顔をしている。
そこにもう疑問は抱かない。
前回の「人物編」で、お面屋がすでにこの世の者でないと結論付け、クロックタウンの時計台の中から動かない彼は大樹の下から動かない子供であり、つまり彼の魂はムジュラの仮面の中に存在していると考えているからである。
ムジュラの仮面とお面屋の意識が融合した世界が「月の中」だと、自分の中ではそう完結している。(でないと一向に話が進まないからである)
四人の子供たちにお面を渡すと、「かくれんぼ」という名のミニダンジョンが始まる。
子供たちのセリフは心して聞かなければならない。
友だちについて、しあわせについて、正しいことについて、本当の顔について。




プレイヤーのハートが削られる。
ふと、本当の顔ってなんだろう、と考える。
お面の下の顔が、本当の顔?
リンクはお面を着けていない。
顔なら見えているだろう。
むしろお面を着けているのはそっちだ。
しかし、子供達が投げかける問いが率直なものでないのも理解している。
本音と建前の"本音"の方を聞いてるのだろうか。
小泉氏の中では"月の中はこうだ"というのが決まっているそうだ。
そして、ヒントを残してくれている。
月の中の子供たちは、「ドア」の役割なのだと。(参考:64DREAM 2000年9月号)
さっぱり意味が分からない。
天才の思考は罪である。
子供たちは、単にかくれんぼをするためのダンジョンに通じる「ドア」であるのか。
まさか、そんなことはないだろう。
あれだけの人間の深みに拘ってきた小泉氏が、最後に投下したものがそんな単純であるはずがない。
では、一体子供たちは「ドア」で、何と繋がっているのか。
このパターンの王道かもしれないが、"心"だろうか。
リンク、スタルキッド、お面屋。
それとも、プレイヤー自身か。
子供たちのセリフは誰から誰に対するものというよりも、自分の中から湧いてくる疑問であると思っている。
正しいと思ってしたことが必ずしも褒められるわけではない。
しあわせの裏で不幸が起こり得ることもある。
トモダチがいつまでもそばにいてくれる存在でないことも知っている。
大抵の大人は本音を隠して生きている。
理不尽や葛藤、妥協を経験し、そうしてひとつずつオトナになっていく。
リンクだけでなく、多くの人がオトナになる段階で今まで信じてやまなかった"しあわせ"や"正しさ"に疑問を抱き、築いてきた価値観が崩れる虚しさを経験し、気付いていく。
子供たちとは、その"気付き"を与える役割だったのではないかと、そんな気がするのだ。
沢山の幸せと不幸を見てきたリンクは、集めたお面の数だけ、その気付きを得られた。
だからこそ、究極のアイテムを手に入れる資格を得たのだと思うのだ。
鬼神の仮面とオニごっこ
最後に残ったのは、ムジュラの仮面を被った子供。
オレと…あそぶ か?
オニごっこ…か、いいな
そうだ、それがいい。
そうして、ムジュラの子供は「鬼神の仮面」をくれる。
子供の口ぶりはまるで相手と同調しているようだ。
オニごっこを提案したのはリンクではないのか。
だとしたら、リンクは自ら鬼神のお面を手に入れたのだろうか。
"オニごっこ"とは、ラスボス戦のことではない。
オニごっこは全ての子供とかくれんぼをして鬼神の仮面をくれるときにだけそう発言する。
鬼神の仮面を貰わずラスボス戦に挑む際、または既に鬼神の仮面を入手している場合はオニごっことは言わない。
そしてオニごっこと言われた初回に限り、リンクは鬼神以外には変身できない。
すなわちオニごっことは、ラスボス戦でリンクが鬼神の仮面をつけて戦うことをオニごっこだと言っている。
鬼神リンクの強さは凄まじいものだった。
鬼神の仮面は全ての仮面と引き換えに手に入れた。
冒険の全てが詰まっているのだ。
鬼神の強さとは、リンクの成長した心の強さだったのではないだろうか。
ムジュラの魔人を倒すと月は消え、タルミナは新しい朝を迎えた。
タルミナに再びの平和が訪れ、町はカーニバルを祝う人たちで大いに賑わっていた。
歌い、踊り、しあわせが溢れ、
そして、完全に消失した。
気がつけばまた森にいた。
数ヶ月前を思い出し、友を想う。
"出会いがあれば、必ず別れが訪れるもの
けれどその別れは 永遠ではないはず
別れが永遠になるか、それとも一時か
それは あなたしだい"
降り注ぐ陽光を浴びて、リンクは未来へと走り出した。
「ムジュラの仮面」のメタファー
最後に。ムジュラの仮面は、その冒険の裏で巻き起こる様々なじけんを通して、リアルな人間関係や大人の事情といったものを垣間見ることができる。
キャラクターのセリフには、時折り製作者の本音かと思うものや、直接プレイヤーに語りかけているかのように感じるものもある。
また、"感謝"という感情は"お面"という形で表現されるなど、作品の中にはそうした隠喩が散りばめられている。
ムジュラの仮面を通して製作者が何を伝えたかったのか、キャラクターのセリフやインタビューから推察していく。
まずはキーアイテムである"お面"は、困っている人を助けるとその褒美として手に入るアイテムである。
クリミアさんの「いいことを1つするたびに、子供はオトナになっていく」というのは、お面を手に入れるほど大人になるという風に解釈できる。
すなわち全てのお面と引き換えに入手できる「鬼神の仮面」=大人の証だといえるのではないだろうか。
資料集には、大人リンクの絵に対し、鬼神リンクの原型?と書かれたものがあり、鬼神=大人というイメージがあったのかもしれない。(参考:ハイラルヒストリアP151)
作中では、度々大人のみっともない部分や裏の顔が強調して描かれている。
純粋な目を持つ子供からすれば、大人とは醜いものなのかもしれない。
そんな大人を月の中の子供は"オニ"と表現し、大人の証拠である鬼神の仮面を手渡したのだろうか。
醜いオニは逃げるだけだ。
純粋で無垢な子供からの、宣戦布告のようにも受け取れる。
また、故買屋のおじさんがサコンに捲し立てる場面は、幼い子供からするとどのように映るだろうか。


おじさんはサコンがケチなスリであることを知っている。この場合、善意ではなく「悪意の第三者」とみなされかねない。
たとえそれがカーフェイのために一役買っていようが、致し方ない、とはならないのだ。
不条理が溢れる世の中で、何が正しいか、その判断を誤らないよう留意しなければならない。
と、このイベントを通して私たちは学ぶ。
隠喩を用いた表現はとくに月の中で多用されているように思う。
何かを伝えるというよりも、あえて難解にして"プレイヤーに考えさせるための空間"といった印象さえ抱く。
先程、小泉氏は"月の中はこうだ"というのが決まっていると書いたが、その続きの文がこちらである。
"「あれはお面屋の子どもたちか?」とか、いろいろ想像してもらえるとうれしくって。正解っていうのは、あの世界にはないんですけどね。"
あそこで各々の感じ方があるだろう。
その全てが正解であり、三回にわたって書いてきたこの記事も単なる個人の考えに過ぎない。
子供たちのセリフにはプレイヤー自身が"考えさせられる"といった声が多いように思うが、その"考えさせる"ことこそが製作者の目的なのではないかと感じる。
あのセリフに対し自分ならばどう答えるか、模索し続けることで視野が広がる。そうしたきっかけや気付きを与えてくれる場面でもあったと思うのだ。
このように、大袈裟かもしれないが「ムジュラの仮面」は私たちの人生に通ずるものがある。
困難が立ちはだかった時、行き詰まった時こそ、またふとタルミナを訪れたいものだ。
そこには必ず自分に訴えかける言葉が見つかるだろう。
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